私がブログを書けない理由
「私がブログを書けない理由」って記事を書こうかと思ったのですが、その書こうとしていた理由により書けませんでした (再帰的)
— 乾パン同好会 (@mfakane) 2018年2月6日
書けない。
ではなぜ書けないのか?
文字を書く癖がない
とにかく書く癖がない。
まず文章を書くことに大変な苦手意識があり、これまで人生においてできる限り文章を書くことを避けてきた。 苦手なので、当然文を考えて書くことに大変な手間と面倒を感じる。読書感想文などすべてサボり通したほどである。
私はとにかく忘れっぽいので、どちらかというと何事もメモしておくことで記憶を補強するようにしたほうが良いのだが、上記の通りまず書くことを面倒がるため書かない。
また、何かをメモしようにもそもそも忘れっぽいためまず何をメモするのかを忘れてしまうし、そもそも忘れないために普段からメモしなければという気持ち自体も忘れ去ってしまう。
価値がないと思ってる
私は普段から検索エンジンで検索することで自分の低い知能と少ない知恵を補強しており、私の頭の中にある情報は大抵すでに Web に発信されている既存の情報である。 何かを頭の中で新しく思いついたつもりでいたとしても、それは多くの場合は既存の知恵であるか、良くてその組み合わせにすぎない。
その私が持っている情報を出力したところで、元の情報を私という劣化フィルタを通して出力しているにすぎず、重複かつ劣化した情報を Web 上に複製することにあまり意味を感じない。 似たような内容であっても品質の低い記事と品質の高い記事では当然品質の高い記事のほうが価値が高いだろう。
恥ずかしい
人の書く文というのはその人の知性がにじみ出る一面があるだろう。 順序良く組み立てる論理性。文面を単調にしない語彙。読み手の受け取り方を考える想像力。 書き手の持つそれらが絡み合い文は組み立てられるのであり、不足しているものがあればそれはわかりやすく文に現れるだろう。
残念なことに、私は例え相当よく見積もったところであまり知性に優れているとは到底言えず、当然そのような文章力とは無縁である。 その低い文章力により、自身の無知無能をさらけ出すような文しか書けずにいる。これは恥以外の何物でもない。
とにかく記事公開までのハードルが高い
まず、心理的なハードルが高い。
考えを文字にする。文字を文章に仕立てる。他人が読める文にする。 それぞれに大きな障害を感じ、大変な時間がかかる。何度も後戻りし、公開に至った瞬間低能を晒すような恥を感じ消したくなる。 そもそも下書きから清書し、最低限人様に見せられるようになったころにはすでに機を逸していることもしばしばある。
そして、システム的なハードルが高い。
これはこの仕組みを選んだ私自身の問題でもあるのだが、現在のこのブログは Hexo でできている。
Hexo は Markdown で手軽に記事が書け、静的ページを生成するため URL 構成やページのレイアウトなどの自由度が高いが、半面更新するためには都度ページを生成し、サーバに反映させる必要がある。 現在は Netlify を使用し、リポジトリに更新を push すれば自動的に生成から反映までをさせるようにすることで多少の手間の軽減を行っている。
しかし、それでもブラウザからオンラインで使用できるようなエディタは標準で備えておらず、毎度 PC から git commit
からの git push
が必要であり、お手軽さに欠ける面がある。
上記に書いたような心理的ハードルがあるのならば、せめてシステム的なハードルはできる限り低いほうが良いのは自明であるため、オンラインでエディタが使用できるサービスへ乗り換えたほうが良いと考えることもある。 しかし、その心理的ハードルのために積極的に検討を進める動機が薄く、あまり真面目には検討できていない。
しんどい
ブログはつらい。